現地に溶け込んで言語を取り入れる ―バリの田舎での言語体験①-

 このコラムを読んでいる皆様の中に、海外に行き、現地のひとびとが何を言っているのかさっぱりわからないという体験をした方は多くいると思う。しかし、その何を言っているかさっぱりわからないという環境の下で、一人で一定期間暮らさなければいけないという方はなかなかいないかもしれない。筆者はそのような体験をした一人である。もしかすると、このコラムを読んでいる方の中に将来的にそのような体験をする人もいるかもしれない。そのために、どのように言語を私が獲得していったのかをこのコラムで語っていきたい。

 私は国際交流基金の「日本語パートナーズプログラム」でバリ島に派遣され、現地日本語教師のALTとして半年間滞在したことがある。派遣期間は半年である。私はバリと聞いて青い海、白い砂浜のバカンスを想像していた。しかし、バカンスとして観光開発されたのはバリ州南部の一部地域で、ほかの多くの地域は現地の方が細々と暮らす地域である。私が派遣されたのは、バリ州東部のクルンクン郡である。クルンクン郡は、オランダ統治前の古き良きバリの伝統が色濃く残る地域である。
 インドネシアはインドネシア語を国語としており、官公庁の文書やテレビや新聞といったメディアではインドネシア語が使用されている。しかし一方で、多民族・多言語国家であり、各民族の言語は私的な領域を中心として広く使われている
派遣前にひと月の研修期間があり、その中で毎日3時間程度のインドネシア語の授業もあった。毎週土曜にはテストがあり、なかなか厳しい研修で、これによって挨拶や基本的な名詞や動詞は覚えて現地に臨んだ。
 しかしながら、ひと月の研修を経て派遣された時、私のインドネシア語の能力は、自分の意思を最低限伝えられる程度であった。最低限というのはどのくらいかというと、「ご飯を食べる」「私は寝る」といったぐらいのもので、大人として最低限のレベルどころか、幼児レベルであったということは察していただけるだろう。そのうえで、現地で私は想定外の事態に出会う。なんと、私が派遣されたバリ州クルンクン郡では、日常会話においてはバリ語の使用がより優勢だったのである。バリ語はバリ・ヒンドゥー教と密接に関連があり、自分の身分に応じた表現とともに相手の身分に応じた敬語の表現がある。そのうえ、文法もインドネシア語に比べ複雑である。また、表記にはインドネシア語のようなローマ字ではなく独自の文字が使われているため、初学者には理解が難しい。
 国語であるインドネシア語は官公庁の文書や出版などのメディアのような公的な領域で使用される一方で、プライベートな場ではバリ語が話されるのが普通である。もちろん、私自身は見た目から外国人だとわかるので、バリ語で話しかけられることはない。しかし、市場や学校の事務室、学生たちの会話の多くはバリ語がメインであった。ホームステイ先の大家夫妻はインドネシア語にバリ語なまりが入ることもあり、聞き取りが困難に感じた。
 周りのみんなは私に話しかけてくれる時にはバリ語からインドネシア語にコードスイッチしてはくれたが、業務連絡を聞く際瞬時に行動できないという場面が何度かあった。例えば、学校の教頭先生が全体に明日の急な予定変更を伝える。周りは同意してその場が収まるのだが、私だけが置いてけぼりになってしまう。もちろん、それぐらい重要な情報なら周りの人に聞けばだいたい教えてくれるが、プライベートな会話ではそうはいかない。周囲がどっと盛り上がるのに、自分だけわからずあいまいに笑っておくしかないのである。頼みの綱のインドネシア語も怪しい状況のため、積極的に質問もできなかった。また、バリ語の中の、伝統的なお祭りに関する語彙の多くは、バリの人々のインドネシア語の中でもそのまま使用されている。そのため、文法はインドネシア語で話していても、語彙の多くはバリ語のため意味が取れないという場面が何度かあった。
 私は英語が通じると思っていたが、英語を習得している人々の多くは南の観光業に携わっている人々で、私が派遣された地域では多くの人は話すことができなかった。学校に行けば現地の日本語教師がいたため、なんとか業務はできたが、ホームステイ先では、英語も日本語も通じず、なけなしのインドネシア語で大家さんと意思疎通をはからなければならない。
 そのような状況下で私は言語習得のために何をしたのか。それは1か月近く「黙した」のである。最近では珍しく紙の辞書を片手にだ。
 どうして私がそのような珍妙な行動に出たかは、次回のコラムで書いていきたい。
(岡田茉弓)